ピリギゃルが将棋倶楽部24で初段になる50の方法

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おまけの読書ノート(2) 小沼丹「黒と白の猫」を読む

ピリギゃルが将棋倶楽部24(将棋ウォーズ)で初段になる50の方法

おまけの読書ノート(2) 小沼丹「黒と白の猫」を読む

 

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「小沼さんの作品について語るときは、文学批評の言葉より、絵画について語る言葉の方が、似合っているようだ。」(秋山駿「解説 小沼さんの芸術」『懐中時計』講談社文芸文庫

 

懐中時計 (講談社文芸文庫)

懐中時計 (講談社文芸文庫)

 

 

 同感である。ただし正確には、美術ではなく、広義の美学(芸術学)の範疇だと私は考えている。平たくいえば、「絵画」の代わりに「囲碁」や「将棋」でも別によいというほどの意味である。たとえば、前回は「懐中時計」を囲碁小説として読み解くことを試みた。そして、今回は「黒と白の猫」を将棋小説として読み解くことを試みる(ネタばれ注意)。もっとも、結論からいうと、この試みは頓挫することになるのだが——。

 小説と随筆が漸近していくという意味で、小沼文学の1つの重要な分水嶺と目される「黒と白の猫」だが、管見のかぎり、この小説を将棋小説として読み解く試みは、これまでにはなかった。「黒と白の猫」は、その標題の通り、一匹の猫が象徴的に登場する。もっとも、その猫はパリジェンヌに喩えられ、人称も彼女と呼ばれるから、正しい数詞は「一匹」ではなく、「一人」なのかもしれない。そして、前回の懐中時計と同様、あるいはそれ以上に、象徴であるだけでなく媒介としての役割がしっかりと与えられているところにはっきりとした特徴がある。

 「黒と白の猫」は、大寺さんという三人称だが一人称を内に秘めたような語り手によって語られる物語である。そして「黒と白の猫」で語られる内容は、一言でいうと、ある男(たち)が細君の死を看取る物語である。けれども、同時に、そのような安直な要約を拒む物語でもあるようだ。というのも、細君が死んだことをダイレクトに捉えるのではなく、細君が死んでから我が家に寄り付かなくなった名無しの猫の安否を気遣うことに焦点が置かれることによって婉曲的に細君の死と向き合っているからである。この距離感を表現することに、従来の評論家は皆、困惑してきたようなのだ。これが私小説とも見なせることが、さらに解釈を複雑化してしまうのかもしれない。

 

 《妙な猫がいて、無断で大寺さんの家に上り込むようになった。或る日、座敷の真中に見知らぬ猫が澄して坐っているのを見て、大寺さんは吃驚した。それから、意外な気がした。それ迄も、不届きな無断侵入を試みた猫は何匹かいたが、その猫共は大寺さんの姿を見ると素早く逃亡した。それが当然のことである、と大寺さんは思っていた。ところが、その猫は逃出さなかった。涼しい顔をして化粧なんかしているから、大寺さんは面白くない。

 ——こら。

 と怒鳴って猫を追っ払うことにした。》

 

 引用が遅くなったが、以上が「黒と白の猫」の書き出しである。〈猫は退散する替りに、大寺さんの顔を見て甘ったれた声で、ミヤウ、と鳴〉き、猫嫌いの細君が〈——でも、あの猫、そんなに厭じないわ。〉と、この猫は他の猫とはっきり差別化されている。いや、差別化されているだけでなく、両義的でもある。というのも、猫に対するアンビヴァレントな愛憎が巧みに表現されていると解釈するからだ。大寺さんは、ミヤウと鳴かれても「心外」に思うのだ。大寺さんの心情に着目すると、「面白くない」「心外」に始まり、最後は「憮然」「仏頂面」に終わるのである。しかし、この不機嫌さの反対の感情も常に仄見えるし、この感情は容易に反転しうるものであり、まさにアンビヴァレントな愛憎としか言いようがない。よく言われるように、愛の反対は憎しみではない、無関心であるという教訓が、ここには非常によく該当するように思う。厭よ厭よも、好きのうち。好きだから、意地悪しちゃう、の世界だ。細君は猫嫌いなのに、厭じゃない。ここにもポイントがある。

 この猫の両義性は、両属性とも言い換えられる。他所の猫が図々しくも大寺さんの家を別荘にするのだから。いや、並行性とも言い換えられる。たとえば、猫を離れれば、将棋の好敵手である米村さんが妻を亡くし、それから間もなく大寺さんも細君を亡くす。猫に戻れば、大寺さんが細君を亡くすと、猫も死んだと思われていたというエピソードもまた、並行性と呼ぶよりほかなかろう。ところが、その猫が生きていたというのが、最後の「憮然」「仏頂面」につながるのだ。「妙」の字で起筆され、形容される猫に託された象徴性とは、同時に、大寺さんと細君を媒介する鎹(かすがい)の重役を担ってもいる。さらにいえば、彼女はパラレルワールドの住人でもあるかのようだ。

 ここまで書けば、題名の「黒と白」の意味も、おのずから明らかだろう。このような二律背反、両義性、両属性、並行性、すなわち「妙」を意味している。二種類の色が混じり合い、グレーやセピアという色を喚起するという意味では、なるほど秋山のいうように、絵画的であろう。

 ところで、水藤新子「小沼丹「黒と白の猫」の表現」*1 が、色の順序に関して「日本語の語順としては白黒とするのが一般的だろう」として、字音語の「黒白(こくびゃく)」や、猫の色の配分が黒:白=2:1であること、White&Blackという英語などを類推しているが、たしかに妙である。

 これを私は囲碁小説の要素があるからと解く。囲碁リバーシでは、先手は黒で、後手が白だ。そう考えれば、ストンと合点がいく。あるいは、黒が死を意味し、白が生を暗示するというくらいの解釈は足しておいた方がよいのかもしれぬ。

 後者はともかく、前者はにわかに納得がいかないという向きもあろうか。たしかに、この小説に登場するのは囲碁ではなく、将棋である。けれども、厳密には、将棋を指すのではなく、将棋が指せないのだ。

 

《——近い裡に、と大寺さんは提案した。お酒持って米村さんの家を訪ねますよ。そして、将棋を指そう。

 ——そりゃいいね。是非いらっしゃい。

 二人は都合の好い日を決めると、忘れないように手帖に書留めた。大寺さんと米村さんは将棋仲間である。昔はよく指したが、この頃は余りやらない。互に自分の方が強いと云っているが、敢てそのことに固執しない。団栗の背比べだと判っているのである。

 ——慰める意味で、負けて上げてもいい。

 ——予防線を張らなくてもいいよ。

 ——じゃ、遠慮無く勝つかな。

 ——それは此方の云うことだね。

 二人はそんなことを云い合って笑った。》

 

 米村夫人が亡くなり、介護から解放された米村さんと久しぶりに将棋を指そうと約束したにもかかわらず、今度は予兆らしきものもなく、大寺さんの細君が急死するのだ。「従って、将棋も指さなかった。」

 この小説は素材的には将棋小説であるが、実際は将棋を指せない小説である。それはちょうど小説を書けない小説家というメタフィクションと同じようなニュアンスで、そうなのだ。これは私小説として全く新しい発明ではないかしらと思わずにはいられない。その代わり、陣地をどんどん広げていく猫の姿は、ある意味で囲碁的である。囲碁と将棋の「バイリンガル」だった小沼丹の面目躍如、それが「黒と白の猫」だと私は解釈している。

 そういえば、粗忽なことに、秀逸な小道具たる「ベススメエルトニック」について言及するのを忘れていた。ロシア語。吉田さんがアルメニアみやげに買ってきた「死なない花、不死草」である。

 

《何の香に似ているかよく判らないが、鼻の奥迄つんと沁み込むような香がした。仔細に眺めると、米粒ほどの黄色の丸い花が二、三十も群って細い茎の先に附いていて、その茎を十数本束ねてある。花も茎も水気が無く乾いているから、大寺さんは造花と間違えたのである。》

 

 これは伏線で、この伏線は次のように回収される。「大寺さんは庭に降りると、数日前に購めたジャスミンの株の上に身を屈めた。「死なない花」ではない花の甘く強い香がした。/——これはベススメエルトニックではない。/大寺さんは意味も無くそう呟いた。」むろん、細君が亡くなったときの「まだ何が起こったのかよく判らぬ気がした」中での呟きである。

 「黒と白の猫」は、黒と白、白と黒の形勢が目まぐるしく変転する囲碁リバーシのごとく、生と死、死と生の意味を問い続ける、やはり稀有と呼ぶよりない比類なき私小説の金字塔であると断言するより他ないと私は思う。

 

*1

http://www.cgu.ac.jp/Portals/0/data1/cguwww/06/29/029-03.pdf