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ピリギゃルが将棋倶楽部24で初段になる50の方法

期間限定で公開中。将棋で強くなるための上達法のあれこれ。難しい符号は一切なし。将棋以外にも応用できるので、ご愛読を。

おまけの将棋ノート(13)

ピリギゃルが将棋倶楽部24(将棋ウォーズ)の初段になる50の方法

おまけの将棋ノート(13)

 

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疑問文と命令文

 

 アンナ・ヴェジビツカは、ポーランド出身の言語哲学者である。彼女の研究が興味深いのは、ポーランド語話者は、親しい者には命令文を用いるという指摘だ。日本語話者も英語話者も、疑問文にすることにより、親密さを表す。「クッキー、食べる?」など。これをキャッチボールの思想と名づけよう。ところが、ポーランド語話者は「クッキー、食べなさい。」と言う。どういうことかというと、親密になれば、相手のことも理解できるから、疑問文にする必要がないと考えるわけだ。一心同体の思想と名づけよう。ところが、他言語話者とコミュニケーションをとるとき、非常に困ったことになる。「ポーランド人に犬のように指図された」と憤る人がいたら、立ち止まって考えたほうがいい。それは反対に親しみを持たれている可能性が強いからだ。

 さて、それでは私たち日本語話者は、どうなっているだろう? まず自分自身に対しては命令文をとるだろうか、それとも疑問文をとるだろうか? 家族に対してはどうだろう、親しい人間に対してはどう? 命令文? 疑問文? 

 思うのだが、どちらも併用するのがメンタルの安定のためにはよいはずだ。日本語には「親しき仲にも礼儀あり」ということわざがあるが、自分自身に対しても命令文と疑問文を併用する。自己内対話では「ただちに勉強せよ。」と命令文を用いるときもあれば、「そろそろ勉強する?」と疑問文にするときもあるといったように。同様に、家族や友人に対しても距離の遠近をとりなおしてみると、これまでとは違った物の見方や考え方が得られるはずだ。特に自己を客観視することにもつながってくるだろう。反対に、他者に対しても、親しみを持って接する。日本人は他者をモノ扱いすることが多く、ホスピタリティに欠けるところがあるから。

 実は日本語の場合、命令文と疑問文というより、文末の断定か推量かの二択でこの問題がしばしば現れる。「~だ。」と言い切るべきところを「~だろう。」「~と思う。」「~だろうと思う。」のようにぼかす。小論文などでよく見られる光景だ。よく自覚した上、吟味して使っているのならよいが、そうでない場合、論理のキレが失われてしまう。反対に、コミュニケーションを重視するメールなどでは「かも」を多用したほうが無益な争いを避けることにつながる。「分かった。都合がついたら行くかも。」日本人が相手なら、何でも「かも」を付けておこう。「その服、似合っているかも。」ただし、相手が外国人なら即刻やめるべきだし、相手が日本人でもその癖をつけていると自身に副作用が返ってくることも押さえておこう。

 たとえば、将棋の場合。将棋は、勇気と気合いに満ちた決断力が求められる。だから、基本的には断定的に進める方がよい。「その歩、取れよ。」「詰ませてみろ。」けれども、時には決めつけてはいけない局面も結構あって、そういうときは、相手、場合によっては天に委ね、おうかがいを立ててみる。「この歩、取って大丈夫かしら?」「この玉、本当に詰むの?」命令文というお父さんと、疑問文というお母さんの両輪駆動が、おすすめ。やはり二者択一は選ぶな、である。将棋は深い。

 

感嘆文

 

 朝、通勤途中のバス停に、晴れでも雨でも、いつも傘を持って長時間バスを待っている男性の方がいる。通行する方(車のドライバーにも!)みんなに手を振り笑顔を振りまいている。おそらく知的障害をお持ちなのだろうと推察するが、非常に気持ちがいい。年齢は私シュうぇッチマンと同じくらいだろうか。けれども、心は少年のようだし、国民性はラテン系である。いつも亀を持って、ひなたぼっこをしているおばあさんもいる。こちらもニコニコしている。手を振ることはないが、力の抜けた笑顔が好ましい。

 私たち日本人――特に労働生産に携わる日本人――は、概して真面目すぎる。ときどきあえてマイノリティになってみよう。当たり前と思っていることに、疑問符をつけてみよう。そうすると、メンタルに効果覿面だ。日本でももっとユニバーサルデザインの思想が広まることを願っている。ユニバーサルデザインとは、すべてのマイノリティの方々が過ごしやすい社会をデザインすれば、マジョリティにとっても過ごしやすい社会が出現するという思想のこと。今日は小論文対策である。

 

アンナ先生の言語学入門

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 感動、ファースト! こう言い続けてきた。

 もちろん、感動し過ぎるのもいかがなものかと思う。松岡修造のようだと、通常は疲れてしまう。というより、陳腐な感動には背を向けるのが、私シュうぇッチマンの本来のスタンス。わざとらしい感動、お仕着せの感動、ありがちな感動、こういった感動にはまったく興味がない。うそ・おおげさ・まぎらわしい。JAROが目を光らせるどこぞの広告文だが、こういうことの絡んだ感動に出くわしたら、まず警戒の態勢に入る。感動の強制が無感動を創り上げているのだから。

 したがって、私シュうぇッチマンの言う感動は、他の人間や民族の鈍感なフィルターでは取りこぼしてしまうような小さな感動である。ふだんは心を動かさないし、動かせない対象に対して、心を動かすことを自らに課している。いや、課しているといったら、義務だな。遊び感覚で楽しんでいる。たとえば今、時計を見たら、ちょうど00秒だったとか、車のナンバーの「な248」が実家の住所に似ているとか、そんな感じ。

 ただ、最近、美術系の天才に興味があるのだけれども、彼ら/彼女らのぶっ飛び方には叶わないとシャッポを脱ぐ。おそらく彼ら/彼女らは、私シュうぇッチマンのような警戒というか防御の姿勢が決定的に欠けている。いや、欠けているというと、あるのが当たり前のような物の見方だから言い換えると、彼ら/彼女らの、何と自由であることか! そして、過去への執着がすごい。いや、これも執着ではなく、それが自然なのだろう。昔、過去の出来事と現在の出来事の区別ができないという障害を持つ教え子がいたけれども、私シュうぇッチマンは楽しく付き合っていた。

 そういえば、昨日は爽健美茶のCMソングを紹介した。爽健美茶の歌とは全く関係がないのだが、家人から「キダ・タローは『難波のモーツァルト』と言われているが、どうなの?」と尋ねられた。私シュうぇッチマンは答えた。モーツァルトより先に生まれていたら、モーツァルトの方が「ウィーンのキダ・タロー」と言われていただろうと答えているくらいだから、天才なんだろう、と。で、キダ・タロー氏の曲を次々と口ずさんで、彼がいかに天才なのかを講釈した。我が家では爽健美茶の話より、そっちがメインになった一夜であった。が、受験には爽健美茶の歌推しであることに変更はない。爽健美茶の歌の、何と凄いことか!

 

【本日のまとめ】

・自身への疑問文と命令文は、バランスよく使おう。

・感嘆文は、他人とは違う場面で使おう。

 

 

◎終盤

・3手必至 ○○○○  計 正正T 手

◎対局

・将棋ウォーズ ○

 戦型は、対石田流・中飛車穴熊

 先後逆ながら、アマチュア名人戦で涙をのんだ因縁の戦型。左穴熊対策は、ダイヤモンド美濃が有効なのだが、それを知らない相手なら楽勝である。珍しく研究勝ち。

 端角には、引き角&端攻め。飛車取りにもお構いなし、こちらも相手の飛角の頭に歩を叩くなど、秘儀つくつくほうし(歩を切って切ってからの、叩く叩く攻撃)炸裂で、さんざん敵陣のかたちを乱しておいてから、大駒総交換。遠見の角から相手の金をもぎ取り、それで自陣の穴熊を再生、薄い美濃囲いなど2枚の桂馬で余裕と言わんばかりに軽くオシャレに料理して会心の勝利。

 相手の敗因は、わが穴熊の歩を取ったこと。そのまま美濃への叩きの歩となってしまう。「自陣の歩が切れたらチャンスなり。」

 

対振り革命 中飛車左穴熊 (マイナビ将棋BOOKS)

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